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安芸高田郡郡山(こおりやま)城で毛利隆元の長男として生まれた。
父隆元が急死したため祖父元就の後見をうけ、永禄8年(1565)元服、将軍足利義輝に一字を与えられ輝元と名乗る。
祖父亡き後は家を継ぎ、父の実弟吉川元春と小早川隆景の補佐を得た。
天正元年(1573)、織田信長に追われた将軍足利義昭を迎えて信長と争う。同10年、備中高松城の清水宗治を助けて信長の武将羽柴秀吉と対戦。この戦いを最後に秀吉と和解した。本能寺の変の後である。
後、新たに広島に城を築き郡山城から移り、112万石を領し豊臣氏の5大老に列せられた。しかし、慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで西軍に組みしたため、所領を周防・長門2ヶ国の36万9千石に減封され、入道して幻庵宗瑞と号した。慶長9年、長門の萩指月に築城し移る。
元和7年(1621)11月3日、輝元は長男秀就に21箇条からなる教訓状を与えている。秀就の行状を誡め、孝行を奨め、家中内外の者、殊に将軍または幕府に対する態度を肝要と心得るよう記したものである。当時幕府は外様大名の取り潰しに躍起となり、その当主の行状に多少でも問題があればこれを口実に改易としていた。若年より一家を背負いその興亡を経験した輝元が、毛利氏の存続・安泰を願う一念でしたためた数ある遺訓のひとつである。
また、『宗瑞(輝元)自筆覚書』(毛利家文書)等にも、「国のおこらんとするハ異見の臣下ニあり」「連々善をつもる者ニハ悪事なし」などといった金言をあまた遺している。
寛永2年、萩城内で没す。享年73歳。
ちなみに徳山初代藩主毛利就隆は輝元の次男である。
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