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文禄4年(1595)10月18日、安芸国広島城で毛利輝元の長男として生まれた。幼名は松寿丸。5歳の時、豊臣秀頼に謁見し一字を賜って秀就と称した。
関ヶ原の戦い後の慶長5年(1600)10月、毛利氏は周防長門両国を家康から改めて受領、輝元は隠居となった。そのため、秀就が6歳で家督を相続し長州藩初代藩主となった。しかし藩政は、秀就が幼少であったため、なお輝元が代わって行った。
同6年(1601)秀就は江戸に下向し家康に謁見、同8年幕府より江戸桜田の邸地を受領し、新邸に移る。さらにこの年、家康の孫の結城秀康の娘と婚約し同13年結婚、後将軍秀忠から松平氏の称号を受け長門守を称した。同16年12月、初めて江戸より帰国し萩城(同13年竣工)に入る。
大坂の陣には幕府に従って参陣。
元和3年(1617)、将軍徳川秀忠から36万9千石余の領知目録を受け、慶安3年(1650)、防長両国のうち支藩を除く全領内を区画して、18宰判を設置し地方行政の基礎を築いた。同4年2月24日、萩城で死没。57歳。墓は萩市内大照院毛利家墓所にある。
この書簡は長州(萩)藩主秀就が毛利日向守にあてたものであるが、日向守とは徳山藩初代藩主就隆で、秀就の実弟である。日付けは「正月朔日」、つまり元旦。年が改まったことを寿ぎ、五明(扇子)を一本進呈することが記されている。
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