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郷土資料ギャラリー
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中央図書館所蔵書画類
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奈古屋里人 栗鼠の絵及び添書
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栗鼠の絵
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縦:31.2センチメートル 横:43.8センチメートル 紙本 |
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同 添え書き
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縦:25.3センチメートル 横:19.7センチメートル |
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作者:奈古屋里人 寛文11年(1671)〜寛保元年(1741)
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奈古屋里人は、寛文11年に徳山藩家老奈古屋主水の子として生まれた。
幼名は万槌、後、辨之助、與一郎、左門、勘左衛門と改め、最後に左衛門と称した。号は知足軒、晩年は
松軒、尚軒、松雪軒など。
天和2年(1682)12歳の時、叔父の奈古屋勘左衛門(禄百石)の家を相続し、徳山藩二代元賢に仕えた。後、三代元次に仕え、宝永5年(1708)特別に禄20石を加増されるなど優遇されていた。
正徳5年(1715)、萩本藩領と徳山藩領の境にある万役山の松の木一本が伐採されたことから、宗支両藩の間に争論がおこった。いわゆる万役山事件である。
時に里人45歳、この事件の処理について強く元次を諌めたが、聞き入れられず徳山城下から追放されてしまった。
翌年徳山藩は改易。
この折、里人は藩再興のために奮起し中心となって活躍した。
そして享保4年(1719)、里人ら同志の努力が実を結び、藩は再興され明治の新しい時代を迎えるまで脈々と続き、徳山の町は城下町として栄えていった。
この「栗鼠の絵」は、里人が60歳の時(享保年間)に描いた作品で、自らしたためた添え書きが遺されている。
添え書きによると、「この栗鼠の絵は、見苦しゅうございますが…」と前置きをして、自分の形見として徳山の教学院へ送ったものであることがわかる。
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