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広豊は三代徳山藩主元次の二男で、宝永6年(1709)江戸三田の藩邸に生まれた。幼名は永井三次郎。
享保元年(1716)4月、前年の万役山(まんにゃくやま)事件により徳山藩が改易になると、父元次は直ちに新庄藩へ引き渡され、在府中であった三次郎は生母津礼とともに、三田の藩邸から麻布の宗藩邸へ移る。ついで同6月12日、三次郎らは江戸をたち、同7月9日萩に到着して、お家再興までの3ヵ年間を、兄の元堯(もとたか)と共にその地で過ごした。
享保4年(1719)5月、家名の再興を許され元堯が四代徳山藩主となったが、わずか3年で煩った疱瘡のために世を去ったので、享保6年4月、三次郎はその後を継いで五代藩主となる。しかしこの時、実際にはまだ元服の年齢に達していなかったので、幕府へは宝永2年の誕生で当年17歳と届けた。翌享保7年11月広豊と改名し、藩政を見ること37年の長きに及び、その間、特に武芸の奨励に力を入れた。
宝歴8年(1758)4月、広豊は下松の別邸に隠居し、安永2年(1773)10月29日、同地で永眠した。享年69(実は65歳)。
六代徳山藩主広寛(ひろとも)は広豊の二男、藩学「鳴鳳館」を創立した七代徳山藩主就馴(なりよし)は広豊の十男である。
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