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江戸時代中期の儒医。通称は初め亀松、のちに弥八、鶴台はその号である。御手大工を勤める引頭(いんとう)家の長男として宝永6年萩に生まれた。幼い頃から学問好きで、萩藩の医師滝養正に乞われてその養子となった。享保7年13才のとき萩藩校明倫館に入り、当代の著名な儒学者小倉尚斎(1677〜1737)や山県周南(1687〜1752)らについて学んだ。
享保15年右田毛利広政に招かれ時観園の教授となった。時観園は右田毛利の学館である。開学は寛永5年、萩の明倫館より91年早い。享保16年鶴台は広政の命で江戸に行き、荻生徂徠の高弟服部南郭(1683〜1759)の教えを受けた。たちまちその学才を認められ、鶴台の名は江戸に高まった。当時の鴻儒太宰春台(1680〜1747)が、“西海第一の才子”と讃称したほどである。享保17年京都に遊学し、翌年帰国。のち再び時観園に戻った。
宝暦2年、師山県周南の病に侍して京都に赴き、山脇東洋(1705〜1762)らの諸名医に出合い医術を修めた。東洋は宝暦4年京都所司代の官許を得て、日本で最初に腑分けを行った人物である。後にこの解剖所見を記し『蔵志』を出版。その序文を鶴台が書いている。
宝暦8年長崎に学び見聞を広めた鶴台は、同10年右田毛利広胖に暇を乞い、江戸に出て塾を開いた。評判を聞きつけ日々門人が増えていった。江戸にいた萩藩主毛利重就は、そのうわさを耳にし、鶴台を儒者として召し抱えることにした。
鶴台は、国史、律令、医薬など様々な書を研究したいへん該博であったので、多くの各藩主もその講義をうけた。米沢藩主上杉鷹山(1751〜1822)も若き日、その門弟のひとりであった。明和7年、鶴台は病を以て休養を乞い帰国。安永2年1月病没した。
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