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鳴鳳館初代教授。恒光九郎左衛門の末子である。それ故幼名を末吉という。
5歳のとき、誤って小刀で一方の眼をつき独眼となった。父恒光は、聡明であった末吉をかわいがり、自ら学問を授けて言った。
「汝の一眼は他人の双眼より明らかならむ。その妙薬は大学・中庸(それぞれ四書の一つで儒教の経典)なり。これを汝の眼として大いに精進せよ」と。
父の意を汲み勉学に励んだ末吉は、恒光亡き後、徳山藩教学の淵源をなした国富鳳山の門に入る。その後萩の明倫館で学び、次さらに江戸に出て学問を修め、そして帰藩した。
徳山に鳴鳳館が創立されると、その教授となり藩の子弟を教育した。徳山藩の教育が大藩と並ぶほどになったのは、紫巌の尽力によるところが大きい。
また紫巌は頗る画才があり、その作については専門の画家も恐れて批評しなかったという。
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