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江戸中期の儒者。筑前に生まれる。名は魯、字は道載。南冥はその号で、初め南溟、のち自ら南冥と改めた。父の家業を継いで医者となったが、経学(儒教の本を研究する学問)に明るく、大変な文才の持ち主で、殊に詩に長じていた。肥前、大阪等を遊歴後、筑前に帰り、藩の学校で子弟を教育した。南冥に従学したがる者は数多く、全国六十六州より来たらざる所無しといわれるくらいであったが、その傑出した才学ゆえに嫉まれ失脚したと伝えられている。
徳山藩では、本城紫巌、役藍泉、奈古屋蔵人などと親交があった。徳山の藩校“鳴鳳館”の名は、蔵人を通して、南冥が七代藩主就馴の命によりつけたものである。
この書は南冥58歳の時のものである。
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