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江戸時代後期の文人画を代表する画家。豊後国岡藩の藩医田能村碩庵の次男として生まれた。11歳で藩校由学館(ゆがくかん)に学び、のち同館の頭取になる。『豊後国志』の編纂を命じられ25歳で初めて江戸に上り、公務のかたわら谷文晁(たにぶんちょう)に絵を学び、また填詞(てんし)とよばれた漢詩の研究にあたった。『国志』完成後帰藩。
文化8年(1811)、岡藩の全領内におよぶ百姓一揆が起きた際、竹田は意を決し一揆収拾の建言書を藩庁に提出した。ところが、建言書は用いられず竹田の隠居願い受理というかたちで終わってしまった。
竹田は職を辞した後、自由な文人となり詩画三昧の生活に入った。しばしば京阪地方に遊び頼山陽らと交流。その文人墨客たちの列伝『竹田荘師友画録』や、画論『山中人饒舌』、また造詣が深かった填詞に関する『填詞図譜』など、多くの著書を残している。絵は温和で中国南宗画に近い独自のスタイルを形成した。
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