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名は正敏、字は子慎、通称又兵衛、巣雲はその号である。
浅見氏は、寛永年間、初代無入が能書をもって徳山藩江戸屋敷の右筆として召し出され、その子正信(巣雲の祖父の祖父)のとき初めて徳山に移り住んだ。
巣雲は幼い頃から才知に富み、昌平黌教授の安積艮斎(1791〜1860)の文に成る巣雲の墓誌には、「翁生而英頴。七歳作〔ハッカ〕字。」とある。(〔ハッカ〕とは篆刻に用いる書体のひとつ)
長じて本城紫巌、役藍泉に師事。また、来遊した備前の書家武元登々庵(1767〜1818)からも学んだが、今ひとつ釈然としないものがあった。
そこで後巣雲は長崎に行き清人について筆跡を研究した。
一方、小野道風、空海の筆意をも学び、ようやくその神髄を悟るに至った。
また儒学・詩文・剣術・槍術・茶道・音律すべてに精通していたと伝えられている。
仕官すること50余年、勤めに励みしばしば賞せられた。安政5年2月29日病没。74歳。
この書は嘉永6年(1853)、巣雲68歳の書初めである。
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