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徳山藩士浅見栄三郎の第二子で児玉氏の養子となる。名は忠炳、青田、品山と号した。剣技銃術に秀で、和漢の歴史に通じていた。飯田忠彦が幕府に捕われ、その著『大日本野史』および『諸家系譜』などを伏見奉行林肥後守に取り上げられたとき、有栖川宮熾仁親王の命を奉じて林邸に往来し、説得してこれを取り返した。
宗藩の久坂玄瑞、入江九一らと親交があり、文久2年京都に出て活躍。後帰藩して学館助訓役兼寮長となり、尊攘の大義を説いて師弟を教育した。元治元年7月19日、大阪にいて禁門の変を知り急いで国に帰ったが、8月9日河田佳蔵らが富山源次郎の襲撃に失敗。次郎彦もその一味と目せられ、12日早朝、自宅において俗論派に暗殺された。享年23歳。徳山藩殉難七士のひとりである。
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