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弘化元年、萩松本に生まれる。通称市之允、名は顕孝、のち顕義と改めた。空斎はその号である。
安政4年(1857)14歳の時、松下村塾に入門し吉田松陰に師事(松陰はその翌々年刑死)、長州藩尊攘派の草分けの一人となる。元治元年上京して7月禁門の変で奮戦、8月下関で英米仏蘭四国連合艦隊と戦った。その後、藩論は恭順派(佐幕派)に傾いたが、慶応元年正月、美祢郡大田・絵堂で恭順派の萩政府軍を破って藩論を回復。同2年6月、第2次長州戦争で高杉晋作と共に幕府の軍艦を撃破。明治元年の戊辰戦争では、参謀として各地に転戦し、終には五稜郭を降した。この戦功により永世600石を賜うことになる。同10年西南戦争では、官軍の別軍を率い八代より上陸し、偉功をあげるなどして、「用兵の術は他によくおよぶ者がなかった」と後に評されている。
また明治18年、伊藤博文第1次内閣では司法大臣をつとめ、その後も要職を歴任。この間、教育面でも力を尽くし、日本大学、国学院大学を創立した。
遺著に『空斎遺稿』『山田中将日記』等がある。
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