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明治・大正・昭和期の評論家。肥後(熊本県)生まれ。漢学者徳富一敬の子。本名は猪一郎、蘇峰は号。
熊本洋学校時代にキリスト教の感化を受ける。同志社英学校中退後、帰郷して明治15年(20歳)大江義塾を創設。19年同塾閉鎖、開校以来250名を越える生徒が同塾で学んだ。同年『将来之日本』を田口卯吉の経済雑誌社より刊行、文名を大いに高めた。同年末、一家を挙げて上京、翌年民友社を設立して『国民之友』を創刊、総合雑誌の先駆となる。その主張する平民主義は大きな反響を呼び、明治20年代の思想界をリードした。23年には『国民新聞』を発刊、ジャーナリストとしての地位を確立した。
明治26年『吉田松陰』を刊行、これは以前講演したものを、後『国民之友』に10回にわたり掲出、それをさらに集めて1冊としたものであるが、41年に、乃木希典の指摘で改訂版を出すことになる。日清戦争前後から次第に国家主義に移行、弟徳富蘆花と決別した。明治28年の中国初訪問以後、数度にわたり中国・朝鮮を視察、29年から30年にかけ欧米巡遊。
明治44年貴族院議員。大正期に入り書き始めた『近世日本国民史』は、全百巻の大事業となった。
昭和18年文化勲章受章。戦後は戦犯に指名されたが、老齢と病気のため自宅拘禁、一切の公職、賞を辞す。27年公職追放解除される。32年95歳で没した。
蘇峰の記念館として水俣市立蘇峰記念館(熊本)、徳富蘇峰記念館(神奈川)等がある。
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