児玉文庫(4)空襲により焼失
明治36年の開設以来、文庫は整備され拡張されていった。
蔵書については、明治38年、7,915冊(雑誌は除く)であったが、その後年々充実し、明治末年は18,726冊に達し、さらに大正末年には28,005冊、昭和17年3月末には43,088冊に達した。
またこの間、巡回書庫(文庫)、館外貸出、児童へのサービス、展覧会、年次報告書の発行など、様々な図書館活動を展開し、社会教育施設として、郷土の文化の発展に大いに貢献した。
しかし児玉文庫は、昭和20年(1945)7月26日の空襲によりすっかり焼失してしまった。
現在、この文庫の存在した場所には、児玉文庫開設百周年記念の碑が建てられ、源太郎の産湯の井戸が保存されている。
なお現存する文庫ゆかりの品は、焼け跡から出て来た「児玉文庫」の門標と、山間部の方が借りておられ、戦災焼失を免れた図書6冊と貸出箱のみである。この図書には「児玉文庫」の蔵書印が鮮やかに残されている。
この文庫を惜しむ声はやがて市立図書館建設へと繋がっていった。
児玉文庫(4)空襲により焼失
明治40年(1907)9月、都濃郡の寄付による閲覧室及び書庫が竣工し、総坪数45坪に拡張された。その予算は1,800円であった。
昭和元年(大正15年)には、文庫建物の大修理及び設備の改善、併せて構内の整理及び庭園を築造し、史跡として保存することになった。この工費は3000円である。
昭和10年(1935)、文庫が手狭になったなどの理由で、本館41坪の増築及び別館物置等を新築することに決定し、同年7月着工、12月に竣工した。
同時に正門並びに庭園等を改造し、ベンチ等を置き洋式小公園とした。延べ坪約164坪となり、本館は平屋建ての75坪(1部2階のため延べ坪82坪)となった。
児玉文庫(3)施設の拡充
開設当初の蔵書は、有志の寄贈によるものと、旧徳山藩校興譲館の蔵書で、当時岐陽小学校(現徳山小学校)に伝わっていたものとで構成されていた。
寄贈者には、新渡戸稲造(1862~1933)や徳富猪一郎(蘇峰1863~1957)、また、山口県出身で総理大臣をも務めた桂太郎(1847~1913)や寺内正毅(1852~1919)らがいた。
なお、明治38年3月末の蔵書は7,915冊で、最も多いのは歴史・地理の書籍であった。その他雑誌、講義録は925冊所蔵、新聞は10種であった。
児玉文庫(2)開設当初
明治35年(1902)12月、源太郎は当時の本丁にあった旧宅「藤の園」を記念するために、私立児玉文庫の設立を文部大臣に申請した。
設立資金は、同30年、英照皇太后(孝明天皇の皇后)崩御の折、陸軍次官であった源太郎が、葬儀の重任を果たしたかどで皇室より賜った金一封に、若干の金子を加えたものである。建築費は総額1,200余円、文庫の建坪は、総坪数30坪であった。
同36年(1903)1月23日、開庫式が行われた。設立者児玉源太郎が臨席し文庫設立の趣旨と由来について演説している。同年1月25日の防長新聞にその模様が掲載されている。
この文庫の開設は、イギリスの日英新聞「ゼ・アングロ・ジャパニーズ・ガゼット」でも紹介された。文庫の開設から間のない同年3月に「日本の公共図書館 児玉文庫」という見出しであった。
その内容は、源太郎の生誕地徳山が詳細に記述され、文庫が建設された場所はかつての屋敷を買い戻したものであること、資金は皇室から授かったものに自分のお金を加えたこと、また本の取り合わせがうまく選択されていることなどが、源太郎夫妻の肖像写真入りで紹介されている。
児玉文庫(1)児玉文庫開庫

児玉文庫室内図書出納所(昭和10年改修後)

児玉文庫庭園内伝承松(昭和10年改修後)

児玉文庫別館及産湯の井戸(昭和10年改修後)

児玉次郎彦遭難遺跡(昭和10年改修後)

児玉文庫庭園内藤棚(昭和10年改修後)

左のドアは児童室へ、中央のドアは特別室へ、その右のドアは婦人閲覧室への入口である。右のカウンターは受付台。
大正14年度、庫主児玉秀雄から文庫の臨時改善費として300円を受け、事務室を移転し児童室を新設している。