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児玉源太郎は、嘉永5年(1852)、徳山藩士児玉半九郎の長男として徳山に生まれた。安政3年(1856)に父が亡くなり、源太郎は幼少でまだ家督が継げなかったので、浅見家から次郎彦が姉久子の夫として迎えられ児玉家を相続した。次郎彦は文武ともに優れた人物で、源太郎はその影響を大きく受けているといわれている。
ちなみに、徳山藩出身の飯田忠彦の著である歴史書『野史』(嘉永4年成立)が、伏見奉行に取り上げられた折、何度も交渉してこれを取り返したのは次郎彦である。『野史』は、実録体の歴史書や公家の日記、各種随筆など1000種をこえる史料を収集し利用して、成立までに38年の歳月を要したという。尊王思想に彩られた歴史書として重要であった。
元治元年(1864)8月、幕府との抗戦を主張する正義派であった次郎彦は、俗論派に暗殺され家名断絶となってしまったが、翌慶応元年には藩論が回復し正義派が台頭したので、児玉家の家名は再興され、源太郎は中小姓として禄25石を給された。
明治元年(1868)10月、徳山藩の献功隊の半隊司令(小隊長)として秋田に出陣し、翌2年3月には函館征討軍に加わっている。後、陸軍に入り佐賀の乱、神風連の乱、西南戦争に参戦して功績をたてた。
明治20年(1887)陸軍大学校校長となり、同24年には欧州各国の軍事教育を視察、翌年帰朝して陸軍次官に就任した。同31年台湾総督となり、その折の政策が高く評価され、同33年台湾総督兼陸軍大臣となった。その後、内務大臣、文部大臣を歴任し、同37年陸軍大将となる。対露作戦計画を作成し、日露戦争開戦後は満州軍総参謀長として作戦を遂行した。明敏な戦略家であり視野の広い政治家であった。同39年(1906)に現役のまま54歳で没した。
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